♂はツライよ #2

この度の異動で僕は妻と過ごした社宅を離れて、また別の社宅へと移った。
何一つ捨てる事など出来なくて、荷物は結局減らせないままに引越しのトラックに乗せられて。
次の社宅へと運び込まれても、必要な日用品以外は部屋の片隅に段ボール箱のままで積まれていた。
恐らくこの先も開ける事なんて殆ど無いんだろうけど、捨てる気にもなれない。
次の転勤もそのまま運び出す事になるか…
引っ越したその日の内に、社宅に入居している8世帯に挨拶に回った。
今回の支店は勤務している人の数も多い為に、社宅は家族向けと単身寮の二種類があり。
僕はまだ幼い息子と二人で家族向けの3LKを希望したんだ。
だから、挨拶に回る度にその家庭の匂いを感じ。
家族の温かさに触れては、息子を抱っこする腕の力を強めた。
可哀想な子、そう思われたく無かった。
けれど、実際は付き合ってみればどの御家族も僕ら親子を憐れむ事なんてなく。
心配は杞憂に終わった。
だけど。
2世帯ずつの4階建の社宅のアパートの、僕の隣に住んでいる筈の。
チョン・ユンホだけには未だに挨拶が出来ていない。
引っ越して一週間が経つ。
配属日は明日だ。
挨拶もしないままに職場で顔を合わせる事になるんだろうか?
チョン・ユンホ…
僕ら若手の期待の星。
異例の速さで課長職まで登り詰めた人物。
そして、僕の直属の上司だ。
僕も同期の中では出世頭で、この度の異動ではチーム長を任命されている。
32歳の僕がチームを纏めて、更に全体を仕切るのが34歳の課長だなんて。
正直、前代未聞だと思う。
恐らく他の支店からの注目度も高い筈。
だからこそ。
事前に顔を合わせておきたかった。
息子を寝かし付けて、少し片付き始めたリビングでビールを煽っていると。
引っ越して初めて、隣の玄関のドアが締まる音が聞こえた。
時計を見れば22時を回ったところ。
少し考えて、飲みかけの缶を置く。
二度、ノックをした。
もし子供が居たら不用意にチャイムの音で起こしかねない。
これに気付かずに出て来なければ仕方がない。
かと言って、朝はお互いに忙しいだろうから訪問は出来ない。
三度目のノックをするかしないか躊躇している間にガチャリと目の前のドアが開く。
「…どちら様?」
細いシルバーフレームの眼鏡が曇って、課長自身の表情がはっきりと伺えない。
見えないなら、外せばいいのに……
「夜分遅くにすみません、明日付で配属されるシムと申します」
「ああ…、シム君かぁ」
「はい。こんな時間に不躾かとは思ったんですけど、社宅も隣ですし。ご挨拶ぐらいは前もってと思いまして」
「隣なんだ?そっか、わざわざ悪いね…」
「いえ…あ、これ。つまらない物ですけど、皆さんでどうぞ」
「…ん、有難う」
「じゃあ……お休みなさい」
「うん、おやすみ」
『わざわざ悪いね』それって嫌味?
眼鏡の奥が見えなかったからか、それとも言われた言葉に棘を感じたのか。
僕の課長へ対する第一印象は。
良くは無かった。

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