迷い猫 #9

腕の中の猫はまだすやすやと寝息を立て、トクトクとリズムを奏でて心音が肌に伝わりゆく。
もう、こいつを解放してやらないと。
しかし、俺が勝手に離れてしまった所で残されたチャンミンにも危害が及んでしまうんだろうか…
それなら今、その手で俺の時を止めさせる?
また昨夜に駆け巡った考えが思い浮かび、ハァ…と溜め息を思わず漏らしてしまう。
そんな事をチャンミンが望むとは思いたく無かったのだ。
ユノはチャンミンと一緒に過ごした時間も、お互いを探るような会話も、殆ど無い筈なのに。
どうして、こうも。
放っておけないんだろう…
結局、一晩掛けて考えた末の答えがこれかよ、とユノはもう自分が可笑しくてチャンミンを抱き締めたまま笑いが込み上げてしまい。
くくくっ、とチャンミンの肩に顔を埋めたままでその笑いを噛み殺そうとしたのだが。
自分の首筋にふわふわと触れるユノの髪の毛が擽ったかったのか、身じろぎしたのだった。
腕の中でモゾモゾと動き出したチャンミンをユノはギュッと強く抱き締め直し。
「チャンミン、よく聞け…」
…やはり、これしか自分には選択肢が思い浮かばない…
その思いを口にしたのだった。
ユノは船着場を目指して歩いていた。
納屋に居る間に干した服はまだ完全には乾くことは無かったが、彼の心が不快感にさいなまれる事は無かったのだ。
何故なら、振り向けば…チャンミンの顔がある。
数歩後ろを付いてくる足取りを確実に感じながら、ユノの足も、気持ちも、自然と前と向いて来るのだ。
"チャンミンを連れて逃げよう"
…これがユノの出した答えだった。
「…おいっ、揃って朝から散歩かぁ?何処に行く気なんだ…」
あと少し、船着場まではあと少しなのに、、、
ユノは声のした方にゆっくりと身体を向けた…
何が何だか、どうして??
ユノの頭にはハテナマークが飛び交うばかりなのに…
島の人達はガラの悪い奴らと一緒に酒を酌み交わしているのだ。
そしてその輪の中心にはアルムさんが居て…
何故かガラの悪い奴らはアルムさんを『姐さん』と呼んでいた。
…は?
きょどきょどして落ち着かないユノにそっと近付く影、それはブミさんであった。
「ユノヤ…あんた、命拾いしたんだね」
その後、ブミさんから聞かされた話にユノはただ驚きの連続で。
ポカンと口を開けた姿を見て、ブミさんに「そんな顔してるとだらしない顔が更に酷くなるじゃないか」と笑われてしまった。
だって…そんな事を言われても…驚かない方が可笑しいだろ…
いまだ惚けるユノをチャンミンもくくっと笑っていた。
「お、、お前!!?本当は知ってたのかよ!!!」
「…怪しいかな、と思ってただけだって。俺、あんたに嘘は吐かないから」
そんな風に言われて、ユノは言葉に詰まり、へなへなと膝から崩れ落ちたのだった。
つまり、ことの経緯は…
ユノはやはりヤクザの若い衆から命を狙われていたのは事実で。
けれど何故、島に赴任した後も無事に生き延びて来たのかというのは、謎の美人女将が鍵を握っていたのである。
この美人女将のアルムは、ユノが撃ち殺したとされるヤクザの頭の内縁の妻で。
その存在はひた隠しにされていた為、アルムの情報は警察の元へは流れていなかった。
だからこそ、面が割れていない自分がユノが流された島へと潜入をしてその命を奪おうと考えていたと言う。
が、しかし、無用な殺戮を好まなかったのが亡くなってしまった夫の信念であったのをアルムはずっと気掛かりにしており。
それと言うのも、警察側から若い衆が『止む得ない発砲ではあったが、絶対に急所は外してあった』と聞かされていたらしく。
…もし、ユノが本当に夫の命を奪っていなかったら、、、
その想いがどうしてもアルムを引き止めざるえないのである。
まだ時間はある、死亡解剖の結果を待っても遅くは無い。
そして待ったのだった…
解剖の結果は直ぐに出て。
やはりユノが撃った弾は急所を僅かに外してあり、けれど、それが引き金になったのか心臓発作を起こしていた事までも分かってしまったのである。
それを知らされてアルムは自分がどうしたらいいのか悩んだ。
ユノを殺める事で亡くなったあの人が浮かばれるとは思えないのに…
行き場のない憎しみを何処へ吐き出していいのか…
若い衆には自分が指示をするまではこの島には立ち入らない事を条件として、我が子を邸宅に残して来たのだ。
何か行動を起こさなければならないと言うのに、アルムはただ島で季節を重ねて行くばかり。
それに痺れを切らせて若い衆がチャンミンを送り込み。
その際、チャンミンにはアルムの存在を秘密にしていた為にややこしくなったのである。
チャンミンは島に来てからアルムの存在を何となく怪しいと感じ、お互いがお互いの動向を見張るような状態になってしまい。
結局、チャンミンも動けないまま。
そして遂に本物のヤクザ達が乗り込んで来たと言う。
が、この時。このヤクザ達はユノの命など奪う気は無かったのである。
何故ならその背景には、アルムが残して来た子供の男子の方が新しい頭として襲名を終え。
その頭はユノを無罪放免と下したからだった。
しかし、いくら待ってもアルムからは連絡が無かった為に、組の中ではアルムがユノと好い仲になったのでは無いかと馬鹿げた噂が立ち始めており。
実の所、チャンミンが受けていた指示と言うのも【ユノを見張り、報告をする事】という命令なのである。
しかし、自分達の耳でユノとアルムの様子を聞いて回った組の者に対して島の人達は口を揃えてこう言うのだ。
『ユノはホモだ』と。
しかもその相手が送り込んだチャンミンと聞いて更に驚く。
で、二人を探して回ったがその姿が何処にも見当たらないので仕方なくアルムの元へ行き。
ユノの無罪放免を伝えて、アルムの店で島の人達と飲み明かしていた。
と、言うのが昨日から今朝に掛けての出来事なのである。
因みに、船着場でユノとチャンミンに声を掛けたのはブミさんの旦那さんであり。
『まだ海の機嫌が悪くて船なんて出せるわけがねえ!』と怒られてしまったのであった。
腰から下がすっかりと力が抜け切ったユノはチャンミンの手を借りながら椅子へと腰を下ろすと、そっとその耳元に口を寄せ。
「なぁ、なんで他所から来たお前がアルムさんを直ぐに怪しいって思ったんだよ?」
「あ?あぁ…だってあんな高いのをサラッと指にはめてる女なんて怪し過ぎるだろ」
そう言って、アルムの左手に光る指輪を見るように視線で促すのだ。
へぇ、そうなのか?と無言でチャンミンを見つめ返すと「あれ、ハリーウィンストンだから」と付け加えられてもやはりユノにはさっぱり価値が分からなかった。
その代わり、チャンミンが女物のブランドに詳しいという事が分かってしまって。
そっちの方が何だかユノにとっては重大な事実であって、気持ちを凹ますのだ。
だから今にも項垂れそうな頭を上げると、意外にチャンミンが自分との距離を置いて無い事に気付き。
あっ、と思った時にはその距離はゼロに迫っていて。
キス。
されそう…と思ったら、その顔は横を過ぎて肩にこてんと伸し掛かり。
「…何も言わずに一緒に逃げてくれてありがと…俺、ユノから、離れたく無かったんだ…」
あぁ、逃げた理由がそういう事だったんだとユノはようやく納得をして。
そして自然と緩みだす頬を隠せなかった。
「お前、本土に連れ戻されるのかな…?」
「…多分。もうあんたの傍に居る意味が無いから」
そっか、と頷いて。
急に胸の奥を締め付ける何かにユノはちゃんと気付き始めていたのだ。
そして。
肩に凭れ掛かるチャンミンの頭を優しく撫でるのであった。
その二人の様子を見て…
ある者は、『やれやれ、年寄りに世話を焼かせるねぇ全く』
ある者は、『いちゃつくんなら家帰ってからにしろっ!俺達に見せつけんじゃねぇ』
ある者は、『ユノちゃん…チャンミン君…』
けれど皆の気持ちは一つ。
二人の幸せを願う事、なのだった。

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