迷い猫 #3

「しっかし、お前ら何で俺は呼び捨てで、あいつはヒョン呼びな訳?」
「だってさぁー!チャンミニヒョンって水切りがすっげえ上手いの!」
「は?水切りぃ??」
「うん‼︎海の上をピョンピョンッて、何処までも石が跳ねてって。あんなのユノになんか絶対に出来ないもんな!?」
なぁ、と互いに納得し合う子供達に何故かユノは腹ただしく。
水切りが出来る程度で、この扱いの差かよと独りごちた。
かと言って今更対抗する気にもなれないのも、この島に来てすぐに、子供達にせがまれて散々水切り対決をした過去があり。
ユノはその時、この子らに完膚なきまでに叩きのめされていたのである。
「で?そのチャンミニヒョンとお前らは何処で会ったんだ?何で猫だなんて嘘吐いたんだよ」
「え?何処でって…ここだけど??猫って書いてくれって、、チャンミニヒョンから頼まれたんだよ…」
昨日のメモを咎めるように言われて、威勢の良かった子供達の表情は瞬時に曇り。
ユノは慌てて「お前達を責めてるんじゃねーよ!分かった、有難うな」と、矢継ぎ早に言ってその場を後にした。
なんか…まるで俺が悪者で、子供達はみんなあいつの味方みたいじゃねぇかよ。
「あー、ったく、、」
制帽の中は汗で髪が湿っていて、おもむろに脱ぎ捨てるとユノは指でその束をぐしゃぐしゃと散らした。
何だかな…
穏やかだったユノの"凪"に、一つ、大きなうねりが起こってしまったように感じていた。
その日は結局、何処へ行ってもユノは軽口を叩かれ、もう弁解をするのも億劫になったのか。何を言われても「あー、はいはい」しか返さないので、それを更に島の人達は囃し立てて面白がった。
そして、いつもよりも早く家路に向かう足であったが。
交番の二軒手前まで近付くにつれ、その足取りは重たくなるのである。
アルムさん・・・
毎晩、そこで夕飯を食べて帰っているんだろ?
どうして今日はこんなにも身体と心が重いんだ?
ユノは自問自答しながらも、どうしてもその小料理屋の扉を開ける事が出来なかった。
恐らくここの女将もユノの噂は耳にしている筈だ。
こんな小さな島だもの、滑稽過ぎる噂話なんてあっという間に広がって当然。
「はぁ…」
店の前を通り過ぎ、とぼとぼと自転車を押しながら溜め息を吐いた。
「しけた面」
ボソッと物陰から声がした。
そしてゆらりと大きな影が動いて、何故かその影がユノを待ちわびていたと感じて眼を凝らす。
「お前か…」
お前の所為で今日は散々な目に遭った!と、その言葉が出て来て当然なのに。
「お帰り」
そいつが眼を細めて言った一言に、俺の口からは。
「…ただいま」しか出て来なかったんだ。
どうせ、腹が減って俺の帰りと言うよりも餌を待ち望んでの挨拶だと分かっていても。
誰かが自分の帰りを待っているという事が不思議とユノの心を和らげる。
そういやご飯…なんもねぇな。
「悪い、飯炊いて無い…」
先を歩くあいつの身体からは何故か腹の虫を擽る匂いが漂って来る。
「あー・・それなら大丈夫かも」
奴の返事と共に、玄関のドアを開けた瞬間。
懐かしい…、なんだこの匂い…?
ユノを温かく迎え入れる、それは家庭の匂いだった。
多分、白いご飯と。スープ。あとはなんだ?
クンクンと、犬のように鼻を鳴らして無造作に靴を脱ぎ捨てる。
玄関で俺に先を譲ったあいつが、後ろで「オイッ!靴ぐらい揃えろよ」とブツブツ言いながらも直してくれている気がして振り向かずに進んだ。
奥に進む程、匂いは濃くなり。
俺の腹の虫も盛大に鳴き始める。
パッとそこだけ別世界に入り込んだみたいに食卓が輝いて見えた。
思わず俺は後ろから来たあいつをハグで歓迎し、手を洗う為にドタバタと台所に走った。
そして、大袈裟だなぁ…とあいつが笑いながらご飯をよそう。
でもその横顔が何だかニヤついてる気がして。
くしゃっとその丸い後ろ頭を撫でつけた。
「いただきまーす!」
誰かと食卓を挟んで食べるのは久し振りの事かもしれない。
いつもは店のカウンターで島の連中と雑談しながら料理を摘むだけだし。
こうして、昔。
そう、昔に誰かと一緒に家で食事をしたのも遠いような近いような記憶であった。
「口に合わない?」
いつの間にか眉間に皺を寄せながら食べていたらしく、あいつは少し不安気にこちらを見ていた。
「いや、、美味いよ!特にこれなんかっ…ん?これって…」
並べられたおかずの一つを指差して気付いた。
それは昨日、ユノが女将から渡された惣菜の一つで。
しかもユノの胃袋に入る前に奴に食べられてしまった物であった。
「どうしたんだよ、これ…」
摘んで口に入れながら奴の目を見て問うと。
奴は目を逸らして。
「…恩義」
「は?」
「だから、一宿一飯の恩義」
顔を完全に横に向け、口を尖らせて言ったその頬は少し赤く染まっているようで。
ユノはその頬っぺたを抓りながら

「サンキュ」
そう言って笑った。
何故か今夜も枕を並べた隣にはあいつが居る。
枕は予備があったから、それとタオルケットをあいつに渡してやったのに。
「虫が出て嫌だ」だとか、子供みたいな事を言い出して。
またあいつは俺のベッドに潜り込んでいた。
それなら下で俺が寝ればいいかと横になろうとすると、それも駄目だとあいつに阻止されてしまい。
無理矢理ベッドに引き上げられる。
仕方なくこうして狭いベッドに横になっている訳だ。
それならついでだからとさっき聞きそびれた料理の事を尋ねた。
「あぁ…日中は暇だったんで、ぶらぶらしてたらあそこの女将さんに声を掛けられて。で、料理が美味いねって褒めたら店で作り方を教えてくれたんだ」
「ふーん…」
アルムさんがこいつに声を掛けたのか。
「安心しなって。俺は狙ってないからあの人のこと」
「はぁ!?な、、何が!?」
「誤魔化しても無駄。顔に出てるよ、あんた」
「な、別に…俺は…」
「あっそ、でもあの人さぁ。人妻じゃないの?」
「……かもな」
「指輪してるもんね、でも旦那さんの姿は見えなかった」
「…俺も詳しくは知らないんだ。島の皆も詮索はしないから」
「そっ。じゃあ俺もしない」
そう…アルムさんは謎の人だった。
俺がここに来た年の秋ぐらいにふらりとこの島にやって来て。
元々、民宿を兼ねていた食堂跡地で小料理屋を始めたのだ。
けれど、ずっと前からこの土地を知っているようなそんな居心地の良さを創り出す彼女に、島の人達は心を開いた。
年齢はもしかしたら40代なのか、もしくは30代後半か。年齢も不詳。
そして、女として花盛りの今。
何処か訳ありのような彼女の微笑みに男達は溺れるのだった。
常に否定しつつも。
ユノもその魅惑の虜になっていたのかもしれない。
もしかしたら、彼女は未亡人なのかも…
心の何処かで俺は何かを期待していた?
そんな風に揺らいでいた心の隙間にそっと奴は爪を立てて。
「じゃあ、こっちは俺が慰めてやるよ」
固く閉ざした筈の殻をカリカリとこじ開けるんだ。
「おいッ、やめろって」
「本当に止める?…昨日は意識無くて後悔してたんじゃないの?」
立てた爪が敏感な部分に触れて俺の身体は無意識にぶるりと震える。
意識が無くて…後悔…
「後悔する程の物だったのかよ…」
薄暗い天井に向かって呟いた。
「後悔するかどうか、試してみる?」
試す。
「…あぁ」
そうするか。

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