迷い猫 #1

あぢー。
うだるような暑さも、澄み切った青い空も、この鼻先を擽る潮の香りも。
もう俺の日常にとっくに溶け込んだ四年目の夏の話。
「あっ!ユノだ~~~!」
「おー、お前ら涼しそうでいいなぁーっ」
「ユノも海に入ればいいじゃん!すっごく気持ちいいよ~~!」
「馬鹿言えっ!まだ仕事中なんだっつーの、見て分かんねぇのかよ!?」
「あーそっか!まだユノはお巡りさんの時間なんだもんねーっ!そりゃざーんねんっだ」
ギャハハッと白い歯をこれでもかと言うほど剥き出して笑う無邪気な子供達の姿がそこにはある。
この小さな島を、少々錆び付いた自転車で見回るのがユノの日課だった。
それが本土の警察署から託されたユノへの任務であり、こうして今日もその変わり映え無い島をひたすら動き回る。
あー、本当、平和だ。
いや、平和こそが俺の願いでもあるんだけど。
ユノがこの地へ足を踏み入れた時は目の前の海はこんな風に穏やかな波であっただろうか。
もうそれさえも遠い記憶の片隅に仕舞い込まれてしまったのか、ユノの心は束の間の"凪"を取り戻しつつあった。
「あっブミさんこんにちはー。昨日は旦那さんと仲直りした?」
「ユノヤ!その話はしないでおくれ!もうあいつの顔だって見たくないんだよ、あたしはね‼︎」
「えッ!まだ喧嘩してんのかよ!?いい加減折れたらいいだろ?二人とも大人なんだからー・・」
「はんっ!大人だってねぇ折れたくない時だってあるんだよ。それに悪いのはあっちなんだからね。ユノヤにはまだ夫婦の喧嘩なんて分かんないだろうがね」
「おっ、言ったな!?俺がまだまだガキだって言いたいんだろ‼︎俺だってなーっ」
「なんだい?ちゃんと下の毛が生え揃ってるか見せてくれんのかい?」
「なっ、、ばっかじゃねぇか!?せ、、セクハラで訴えるぞ!?」
「アッハッハ!ほら、そういう所がまだまだ子供だって言ってんだよ。あんたにはやっぱりこんなちっぽけな島のお巡りさんが一番お似合いだね?」
「ぐっ、、うるせー!」
この島の人達はみんな揃いも揃って口が悪いとユノは思っている。
でもそれは他所者のユノを家族として受け入れてる証拠でもある為、腹を立てつつもまた明日にはこうしてブミさんに声を掛けてしまうのだろう。
そしてまたからかわれて、腹を立てるの繰り返し。
ユノは自分が怒ったり、笑ったり、そして時には島の誰かの為に泣いたり。
そんな感情が当たり前ように湧き上がる事に喜びを覚えるのだ。
ユノが本土で失った大切な物がここには溢れていた。

ユノがギコギコと煩い自転車を引いて交番兼社宅に戻る頃、陽はとっぷりと沈み。
遠くに見える暗い海の上ではぽっかりと三日月が綺麗に姿を現していた。
日中、よっぽどの事がない限りこの交番へ島の人が駆け込んでくる事は無い。
急ぎの事件(酔った席で殴り合いの喧嘩が始まったとか)なんかは常時持ち歩いてる携帯に知らせがくるし。
だから、ユノは出歩いてここを空ける事が出来るのだ。
それに人気のない交番でぼんやりと一日の大半を過ごさなきゃならない方がユノにとっては苦痛とも呼べる。
だから賑わしい人達との交流がユノには有難かった。
「ただいま~、って誰も居ねえけど」
ガサゴソと手にぶら下げたビニール袋からさっき受け取ったばかりの惣菜を取り出す。
ユノが住居としているこの交番は島の中心地にあり、二軒隣は小さいけれど評判の小料理屋がある。
評判と言うのは、味良し、値段も良心的、その上女将が美人ときたら、そりゃ文句の付けようがない。
ユノは一日の巡回の最後に必ずそこで夕飯を食べてから帰宅するようにしていた。
どうせ家で一人で食べたって碌な物しか作れないんだ、それなら島の男達と食べたり偶にはお酒も舐める程度に飲んでみたり。
その方が一人よりもずっと楽しい食事になる。
そして、勘定を済まして店を出ようとすると必ず女将は決まってこう言うんだ。
『ユノちゃん、これ。作り過ぎたから朝にでも温め直して食べて』
俺が好きそうな惣菜ばかりをそっと手渡し、しかも誰もがコロッと陥落してしまいそうな微笑みのおまけ付き。
『明日も待ってるから、いい夢見てね。おやすみなさいユノちゃん』
おやすみなさい、アルムさん…
名は体を表すとはよく言ったもんだ。
俺に、、その気でもあんのかな…
まさかねー・・いや、まさか、、、なぁ?
ほろ酔いの所為で上手く頭がまわんねぇー。
うー、こんな日は早く寝た方が良さそうだ…って、あれ?
帰った時に郵便受けに溜まってた封筒やらなんやらと一緒によれよれの紙切れがピラリと一枚混ざっていた。
ん?なんだこのきったねぇ字は。
んーっ、なになに?
【ユノへ
迷子の猫がいたから、鍵の開いてた部屋から入れておいたぞ!あとはよろしく!!】
・・・は?あ?
この字はどう見ても海で会った子供達だけどー・・
猫ってどうゆう事だ??
ユノの頭は混乱していた。
何故ならこの島の猫は猫らしく自由気ままな暮らしをしている。
これが誰かの家の猫だ、とか。そんな概念はない筈なのに……
おっかしいの。
それでも取り敢えずユノはその預けられているであろう猫を探す事にした。
「おーい、猫ぉ~!居たら返事しろ~~」
すると、背後からガサッと物音がして。
ユノの肩がビクッと跳ね上がる。
「ニャぁ」
・・・今の、ぜってー猫じゃねぇし。
「なぁ、誰だよこんな悪戯すんのは?」
「・・・」
「あと5秒で出て来ないなら。逮捕するぞ」
どうせ、近所の子供達の悪戯だと思っていたんだ。
だから脅かしのつもりで声のした方へ投げ掛けたんだけど。
まさか…
「良い匂いするね、お巡りさん」
灯りの無い部屋からひょっこりと顔を出したのが、まさか。
成人男性だったなんて。
誰が予想出来るよ。
「ギャーッ‼︎あんた誰!?ど、ど、ドロボー!?」
取り乱したって仕方がないと思わないか?
なのにそいつは本当に猫みたいなまん丸い目でちょっと肩を竦めて。
「人聞き悪いな。迷子を保護するのがあんたの仕事だろ?」
そう言って、奴は悪びれもせず。
勝手に惣菜を指で摘んでパクパクと食べ始めたんだ。
「おぃ…待てっ、、俺の朝ご飯を勝手にーっ!」
「お巡りさんは善良な市民の味方だろ?ケチケチすんなって」
「うるせぇ、お前なんか見た事もねぇよ!しかもここは島民だっつーの‼︎返せよっこのっ、、」
田舎ならではの広い社宅は暗闇さえ怖くなければ逃げ場所なんて幾らでもある。
こちらとら必死でその姿を追ってんのに、まさに奴は猫なんだ。
寸での所でひらりと身体を交わされて、いつの間にかまた暗闇の中へと姿を隠す。
だからもう俺は観念して、「出て来い」って言ったら太々しく姿を見せた奴は更にこう言ったんだ。
「おかわり」
よっぽど腹を空かせていたのか、惣菜が入っていた容器も箸代わりにしていた指先も綺麗に舐め尽くし。
やっぱりあのまん丸の目で催促をする。
・・・全く、あいつら変なのを拾いやがって。
「お前、名前は?」
「…チャンミン」
こうして猫みたいなおかしな奴が俺の家に住み着いた。

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